市民活動支援センタ-事業
平成23年度第2回市民活動支援セミナー


地方分権の受け皿となりうる市民活動とは
〜市民自治力の発揮に必要な熟議の進め方

講師


近畿大学総合社会学部教授 
久 隆浩氏

司会&コーディネーター
大阪狭山市市民活動支援センター所長 白井 隆



日時
平成23年11月5日(土)  9時30〜11時10分
場所
市役所3F会議室

参加者    まち大7期受講生 32名, 
一般参加 9名
円卓会議関係者 7名
まちづくり研究会関係者 9名
市役所関係者 16名
スタッフ 13名
合計参加者 86名 

     ↓
  配布Resume資料
(↑をCrick)


講演要旨掲載
講師未見承

講演要旨                
9:38  
今日お題を頂いたテーマは熟議・・・そのお話だが予告めいて言うと、2Pの3章に熟議、3Pの4章に対話がでてくる。 2年ほど前はこの熟議と対話を区別して使うことは少なかったが、最近はこの熟議と対話が違うことを意識している。 これが今日皆さま方にお伝えしたいポイントの一つである。

まず最初に、今日のタイトルのなかに「地方分権」という言葉が入っている。 皆さんは本当にこの地方分権をイメージとして共有できているのだろうか・・・その辺をもう少し考えなおさねばならぬのではなかろうかと思っているところである。 

地方分権或いは、地域に分権という言い方をするが、昨日も岸和田でその話をさせていただいた。 岸和田には地区市民協議会があるが、この地区市民協議会に権限を渡そうとする試みが数十年続いている。 しかし、地域の方もどう動いたらいいかを試行錯誤しているし、また行政の方でも、地区市民委員会がどう担うかの整理が出来ていない。権限を委譲するのに、具体的に何の権限を委譲したらいいのか明快な答えが見えて来ていない。  

つまり国から府、府から市へ権限を委譲する時は、何々の権限・・とはっきりしていても、市から地域への権限委譲は、何を渡すべきか、また受け手の地域の方でもまだ曖昧なのが現状であろう。 権限の委譲には責任が伴うし、物事を決めていかねばならない。 本当に地域がそこまで権限を欲しがっているのか、仕切り直しの時期と説明した。

そこで、今日の話しのもう一つのポイント・・・ここが大事だが、物事を決めるのは大変なこと。 しかしその意思決定の場面がなくても、楽しく動ける活動は担えるのではなかろうかということである。 そこに物事を決めることが入ると腰が重くなるのでは・・・。

9:45
今日の参加者は男女居られる。 女性の場合は、楽しく活動できたらいいとフットワークが軽い。  男性の場合は、決め事をしないと動かない傾向。 この場合、場面場面で使い分ける必要が出てくる。 その場面が熟議と対話であり、この二つを上手く繋がらせていくことが必要であろう。
  

ここまでが本日の予告部分。 これからプリントに従い
1.ネットワーク社会の構築に向けてに入る。

インターネットの登場で世界史が大きく変わった。 しかしFacebook や Twitterで社会が変わるのだろうか? Facebookの呼びかけから北アフリカ民主化運動で政権が大きく変わった。 また、またアメリカ社会から発したグローバル経済に対するデモが世界中に飛び火した。 これもFacebookに端を発したものである。 

しかし、これは単なる情報交換の道具に過ぎず、メンバーが共感を生み行動につながることが大切である。 そうでないと世の中は変わらない。 情報交換だけではダメで、共感を生み、その人達と行動に移さないと世の中は変わらない。 そうでないと単なる雑談に終わってしまう。

行動に移せるかは、ひとりひとりに自分で決める主体性が求められるところである。 そうでないと単なる情報交換に終わってしまう。  私のここ数年間の活動は、自分で動ける人達を増やしていくことに重点が移ってきた。 それが出来上がってくると、ネットワークが機能することになる。

ネットワークとは、自律分散型と言われている。 これを知恵蔵2011から引用すると、
「集中管理システムの対置語。 全体を統合する中枢機能を持たず、自律的に行動する各要素の相互作用によって全体として機能するシステムのこと。 インターネットがその典型」とある。 自律分散型システムは、コンピューターの分野から出てきた。

他面からみると、1960年代のMainflameによる集中管理制御から⇒処理能力の向上したPCに伴う現在の自律分散型PCネットワークによる制御への変化とも言えるだろう。

人間の社会も一緒。 ひとり一人の能力がアップしないと、自律分散システムは成立しないことに私も気がついた。 

さて、自治条例に基く住民投票があるが、ドイツ連邦共和国憲法では国民投票は禁止。 その理由は、ヒトラーの独裁でも、必ず国民投票にかけ多くの国民の支持を得て様々な衆愚政治(Populism)を行ったことによる。  つまり、政治に関して理性的に判断する知的な市民より、情緒や感情によって制度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動の悲劇だったのである。

ドイツ国民はこれを反省し、国民投票を禁止した。 Populismは下手をすると衆愚政治⇒独裁政治を作ってしまう危惧からである。 

美味しいものをつくり、また人を殺す包丁の使い方と同じ事例。 その鍵を握っているのが私たち一人ひとりが勉強し、しっかりと考え物事を動かせるようにならないといけない。 そこが私が今一番頑張らせていただいている点でり、それを小学校区、中学校区から始めてみませんか・・・と言うのも私の仕事である。

じゃあ、そのためにはどうしたらいいのか? 
2.人任せの社会にしない・・がそれである。

ところが人任せの人が増えている。 これをなんとかしなければならない。
なぜ、自分が動かなくても問題に対処していけるのか・・
なぜ、近所づきあいがなくても何とかやっていけるのか
それは⇒制度やお金で問題を解決することであり、その担い手は行政や警察という社会である。 人任せの人は、決定が自分に都合が悪かったら文句を言う。 だから厄介。

地域で2割⇒5人に1人が自分で動こうとする人がいると凄い力にになると言われている。 現状は1%くらいだが、それを増やさねばならない。 

近代という時代の特徴は、資本主義、法治主義である。
ハーバマスは数十年前にこれを⇒生活世界の技術化と表現した。

つまり、@貨幣をメディアとする
経済システム
A権力やメディアによって制御された
国家・行政システムであるとしている。

本来は自らが当事者として調整を図らねばならない他者との軋轢を、システムによって防止、調整し、リスクや苦悩を軽減することで合理的に生きていく・・・とした。

10:10
システム領域が拡大することでシステム自身の基盤であったはずの生活世界のコミュニケーション的行為を圧迫するようになり、「システム合理性による生活世界の植民地化」が起こるのである。  これを何とかしなければならない。

それでは、どうしたら良いか? それは、
@私的領域と公共性のそれぞれにあるコミュニケーション的構造をとった行為領域を、経済及び行政の行為システムが持つ独自の力学、物象化から防衛する自由の制度を構築することである。 つまり、自分達で話し合い、自分達で解決することを増やさないと仕組みに負けてしまうとするものである。 
A専門家文化と貧しくなった日常実践との乖離を今取り戻すことである。 例えば原子力発電の事故。 専門家でも複雑なシステムと、電気を利用する任せ切りの私私達との乖離がそれ。  この辺りが大事なことなのでお話した。

10:17
さて、この大前提を基に、今日の熟議の話しに移る。

3.熟議の民主
⇒Delivertive Democracy
討議型民主政とも協議型民主政ともいわれている。
先ほどのハーバマスもDelivertive Democracyによって立つ。 だから話し合おうよ・・・もこれによる。

B.マーニンという学者を語句を引用すると、
正統性の源泉は、個人のあらかじめ決定されている意思でなく、その意思が形成される過程それ自体、いいかえれば協議である。 正統な決定とは、万人の意思を代表するものではなく、万人の協議の成果である。 そうした成果に正統性を与えるのは、万人の意思が形成される過程である(ルソーの考え方)。 協議の原理は個人主義的であるとともに民主主義的でもある。 我々は、例え長きにわたる伝統に反する危険を冒すことになっても、正統的な法は、普遍的な協議の成果であって、一般意思の表明ではない事を確認しておかなければならない・・・とする。

つまり、何が正しいか否か、どうしてこれをしなければならないかは、法律に書かれている。
しかし、最初から決まっているのでなく、正しいとしようとすること、正否は前もって決まっているわけではないと言っているのである。 

まず話し合ってみようよ・・・その答えを見つけよう・・・その答えが唯一絶対の答えでないかもしれないが、でも少なくとも話し合いに参加した人には納得のいく答えのはず、一旦答えが出たら、皆がその答えに基き行動しよう・・・

多様な意見の持ち主が時間をかけて議論することが大切で、その結果として出された答えが公共性の高い答えとする。 これがDelivertive Democracy とするのである。

このときに使うのが熟議。 議論にかけた時間だけでなく、議論に参画した参加者の顔ぶれも大事である。 熟議を成り立たせるには、多様な意見の持ち主が議論に参画しているかどうかも必要である。

このことを皆さんはどう考えるだろうか・・・人数の問題ではない。 多数決の怪しいところは、少数者の意見に対する圧力となってはいけない。 多数決は最後の決定手段。
似たもの同士の集まりは心地よい楽が、意見の異なった人と議論する道を見つけお互いが納得していく必要がある。 

10:30
そんな難しいことはダメだという方もおられよう・・・そんな方へ
4.対話型民主制の話しをする。
A. ギデンスが説くところだが、かれはこれを
第三の道と説く。

対話型民主制は、協議が行われる場所より、むしろ協議に対して開かれているという様相である。 つまりオープン型で、その協議そのものが開かれているかどうかをを重視する考えである。

対話型民主制は必ずしも合意の獲得を志向していない。 公的空間における対話が、互いに許容できる関係の中で、合意⇒熟議に至らなくても、他者と一緒に生きるための手段となることだけを想定しているのである。 合意をしようよ・・・に至らなくてもよい、お互いが知り合ったら、別々でも生きていけるとの考え。 お互いが理解するだけで充分である。家族会議もそれ。

対話型民主主義は、連帯性の創出なり連帯性の維持だけでなく、連帯性が強まった場合に、葛藤や衝突、社会的排斥作用を回避したり、最小限にとどめることである。

対話型民主制の理念は、民主化が、一方でこうしたマイナスの帰結を回避しながら、社会的凝縮性を強めることが出来るとする。  つまりつながりが大切。 ぶつかり合いはなんとかなる。 お互いが知り合い繋がることが大切で、コミュニティのつながりが必要という。

10:35
ここで当講座の案内文をご今一度ご参照願いたい。

地方分権時代における参画と協働のまちづくりの推進には、市民間でも、市民と市の間でも、異なる立場や考え方を、お互いに理解し合いながら、対話を重ね、合意に向けての努力を積み重ねるという「熟議」の必要性が注目されている。

これは一面正しく、他面誤解を招く。 対話と熟議は違うもの。 対話を重ねるとお互いが分かり合える。その延長に熟議があればうまく機能する。 つまり対話を重ねることが熟議である。 ここが微妙な点だが、もう一度確認しておきたい。

10:38
5.対話の意義
まちづくり井戸端会議。

まちづくり円卓会議は、対話の場にして欲しかった。 今の円卓会議は対話の形がなっていないのでは・・・それは市役所側のお願いの仕方にも一理あるかもしれない。 
出たい人が出たい時に参加する形が望ましい。 議題はみんなで持ち寄る。 そして合意形成を目的とせず、ここで物事を決めることもせずお互いで話しをする・・・この考え方が、D.ポームの「ダイアローグ」に示されていることに出会い、オッと思った。なぜなら私の持論とポームの「ダイアローグ」が一緒だったからである。     

彼曰く、原則として対話はリーダーを置かず、何の議題も設けずに行うべきだ。 言うまでもないが、我々はリーダーや議題というものに慣れてしまっている。 そのため、リーダーなしで会合を始めれば(または議題も目的もなく話しはじめれば)何をすべきかわからないという大きな不安に駆られるだろう。 そうした不安を克服する一つ方法は、不安そのものに立ち向かうことである。 実は証明されているのだが、一時間か二時間このような対話を行ううち、人はそんな状態に対処できるょうになり、もっと自由に話し始める。

つまり進行役がいなければ、みんなが会話を楽しんでいるうちに、自由に発言しあう形にあり、やってみれば楽しくなる。 私はこれを井戸端会議としている。

対話の目的は、物事の分析でなく、議論に勝つことでも意見を交換することでもない。 いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それを見ることなのである。 誰かと戦うことでなく、誰かの話しがヒントになると楽しめばよい。

対話は、いつも楽しいものになるとは限らないし、目に見えて有益なことを成し遂げるわけでもない。 そのため、困難にぶつかると直ぐに、対話をやめようと思い勝ちである。だが、継続することが非常に重要だと私は提案したい。 そこを考えるべき。

まちづくり円卓会議では、なんの話しもない・・・もう止めてしまおう・・などのことがよくあるが、続けることが大切であり、そこを考えていかねばならなのである。

ボームは物理学者だから、
Coherentをよく使う⇒レーザーの光のように複数の波動がお互いに干渉しあうことによって協力なパワーを持つことになるのである。 話し合って同じ方向を向いたときに凄いパワーになるよというわけである。 お互いに知り合うことで、何度も繰り返すことで方向性が一つになり、凄いパワーになるというのがボームのダイアローグの一番の柱になっている。

今日のお話で、物事を決める場面と、話し合ってお互いが知り合ってそこから繋がりあう場面は違うのだということと、熟議は物事を決める非常に重要なことだが、、もっと対話し、お互いを知り、本音で話し、そこから共感共有が生まれてくれば、つながりも生まれてくるといった、すこしユッタリとした構えた自由な意見交換の場所となる・・・これを使い分けていただきたいのである。 

先ほどの円卓会議のことで、対話に徹しきれないものがあるとすれば、そこには、事業とか事業を動かすお金の問題で、そのお金をどう使うかをしっかりと決めておかねばならない。

そのお金の問題があるから、意思決定をしなければならない状態となっていると思う。
物事をしっかりと決めておかねばならぬ場面は二つある。 一つは、予算の承認。 これは意思決定を要する場面。 個人の権利に制限をかけるときにはキチンとした合意形成が必要である。 そこを切り分けていただきたい。

今日の話しはネットワーク社会をどうつくるかであった。1Pの下から4行目の経済システムと国家・行政システムをご覧願いたい。 

経済システムは、儲かるか否かの二択で非常に明快。
ところが国家行政システムは、権限・権力を使ってのことだから、合意形成が必要。
この両輪でまわしてきたのが今までのやり方だったが、先ほど引用のギデンズに言う第三の道は、それがあるとすれば、世の中を変えてくれというのでなく、いままでの経済の仕組み行政の仕組みに加え、三つ目を増やしませんか・・・ということである。 

その三つ目とは、ボランタリー領域。 つまり自分の気持ちで動くという部分である。 この領域は共感が非常に重要なことである。 もう一つは関与⇒committment. この共感と関与でうごかして行くのがボランタリー領域である。 分り易い例は、東日本大震災。 沢山のボランティアが全国から自分の意思で何かできることはないかと集まった。 これが共感と関与である。

この部分を作り出したいというのが
第三の道である。このボランティア領域に必要なのが対話である。 自発性とは強制されない、誰かの行動に共感して動く。

まちづくり円卓会議で、二時間ほど会議をする。 そのあとであちこちで人の輪ができている。 これが重要。 みんなで意見交換するより、終わってからの立ち話が次の日程につながるキッカケとなるからである。 

冒頭の話をもう一度思い出してもらいたい。 FacebookやTwitterは単なる道具で、そこで共感が生まれ行動に繋がっていくよ・・・ということであった。

最後の最後の話しだが、しっかりとして動く部分がプラスに繋がって動いていく増していけば、それが三つの道の領域となって始動すればありがたいと思う次第である。

一番初めに挙げた権限ということだが、物事を決めるときに重要な言い回し でも、共感で動いていく部分は権限とはいわない。 相手との共感だから権限を持ち出す必要はない。 こうゆう場面でも地方分権と地域分権を少し切り分けえ考えていただくと、もっとフットワークの軽い良い話ができるのではなかろうか。

実は、物事を決めるときも、対話の場面も従来から上手く使い分けてきた筈。 飲みにケーションがその実例である。 飲みにケーションはそこで腹を割って話しする対話である。 
そこで重ねあってこそ、熟議も備わってくるという経験はかってからやってきたことである。

これをもう一度振り返ってもらうと、対話でみなの気持ちが重なりあい、熟議の適応が大きく変わってくる・・・そんなことをやっていただければ思う。
11:05




  
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